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読書亡羊

気ままに読書、気ままな読書日記

教養としての株式投資

*投資と投機を分けるもの
 株式投資はギャンブルではない。しかし、ギャンブルとして行っている人たちが多いのも事実だ。それは投機と呼ばれる。
 では、投機と投資を分けるものとは何だろうか。それは社会参画しているという意識の差なのではないかと思う。

 投資と投機を分けるものに、資金の多寡や株の保有期間などは全くが関係ない。大量の資金投入だろうが、超短期の取引であろうが、それは投機と投資を分ける本質的な違いにはならない。
 取引の形がどのようなものであれ、自分の資金を役立ててほしいという意識のもとで行っているのは投資であり、利ざやを得ることしか考えていないものは投機だといえる。

 もちろん投資家は慈善事業で投資を行っているわけではない。資産運用の一つとして株を購入するわけだから、当然、配当や売却益などの利益を期待している。しかし、少なくともそれだけを目的にしているわけではない。
 投資した資金によって、新しい商品やサービスが開発され、そこに新しい市場が生まれ、雇用が創出され、さらには、社会がより豊かで便利になり、等々、といったことも一方で期待しているわけだ。だからこそ、その会社を信頼して自分の大切な資金を投資する。そこには少なからず、自分のお金を世の中に役立てようとする社会参画の意識が働いている。

 要するに、投機と投資を分けるものとは、株取引に向き合う際の意識の差であって、それ以外に本質的な差はない。これは一方で、両者の間には外形上の差はない、ということでもある。両者の差は見た目では判断できない。これが株式投資とギャンブルの差を分かりにくくさせている。

*投資が投機より有利な点
 だからこそ私は、株式投資が本来の意味での投資になるように心がけて投資を行うべきだと思っている。それは私がめちゃくちゃ偉いからではなく、結局そのような投資のやり方が、一番危険の少ない投資方法だと考えているからだ。

 チャートと市場の動向だけを分析し、株価の変動だけに関心を向け、その会社の事業には全く興味を示さない。。。こういった人間は、損失を出したときの心理的負担が極めて重くなる。だが、会社の事業に少なからず関心を持っていて、それを応援するつもりで投資したのであれば、多少の損失を出してもまだ心理的な余裕を持つことが出来る。
 また、マネーゲームとしての投機は、利益が出せない投資はすべてが無駄だったということになる。一方、投資であれば、たとえ利益を出せなくても、その企業には、次にまた頑張ってもらえればそれで良いし、もっと応援する気があるなら、含み損を抱えたまま長期塩漬けにしていても自分自身で納得できるだろう。
 つまり、投資としての株取引は、利益が出せなければすべてが無駄と考えている投機よりも、取れる戦略の幅が広くなる。このことの意味は非常に大きいと思う。

 したがって私は、投機よりも投資の方が着実に利益を上げられると考えている。そのためには株取引にあたって、長期塩漬けにしても納得できる企業の株だけを購入することにしている。
 含み損を抱えていても、この点を守っていれば、目先の利益だけを追いかけて、焦って狼狽売りして損失をかぶるというような失態は避けられると思う(もちろん自分の資産の流動性を犠牲にはしているが)。

*教養を養う手段としての株式投資
 株式投資を投機の手段としてしまうことは、危険であるばかりではなく、投資の面白さそのものを失わせているように感じる。
 株式に投資するのは、資産運用のためであり、要はお金を増やすためにすることだ。しかし、投資先を自分で調べて、自分で決断するというところに知的な娯楽としての要素がある。自分で調べるから、社会や経済のことにも詳しくなる。その意味で株式投資は、自分の資産を増やすためのものである以前に、一種の教養を養うものだと思っている。
 銀行預金は、自分の金がいったい何に使われているのか全く分からない。だから、たとえば原発に反対している人の預金が、原発建設に使われているなどということが起こりうる。ブラック企業に勤めて心身共に疲弊しているのに、自分でせっせと貯めた預金がブラック企業に投資されて、その経営者に多大な利益をもたらしている、なんてことも十分ありえる。こんな皮肉な話もないだろう。

 受身で他人任せな態度を改めて、自分で考える力を養うのに株式投資ほど向いているものはない。教養とは、博識や薀蓄を語ることではない。自分で考え、自分で判断できる知性のことだ。株取引は、自らの教養を涵養するのにきっと役立つはずだ。