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読書亡羊

気ままに読書、気ままな読書日記

René Descartes『省察』(1641)

Je pense, donc je suis. - cogito ergo sum

我思う故に我在り

 西洋哲学史の中でも、とりわけ有名なこの言葉は、近代理性の出発点であり、近代哲学の幕開けを告げるものだ。デカルトの思想は、この言葉とともに、近代的な明晰さの象徴として理解されている。

 だが、デカルトの『省察』は、一言で言えば、神の存在証明を試みた書物だ。神の存在を証明しようという極めて神学的な意図のもとで書かれている。ただデカルトの方法は、神学的な権威主義による神への理解ではなく、理性による神の証明だった。そのため、『省察』は、もともと理論的な論争を意図した書物だったようだ。

 現在、広く出版されている翻訳は、1904年に公刊されたアダン・クヌリ版(AT版)を底本としており、初版本から本論のみを取り出した形になっている。
 だが、初版本は、本論のほかに、自身の形而上学に対する他の著名な学者たちの反論とそれへの再反論をまとめた構成になっている。
 Wikipediaの解説を読むと、本書の出版の過程がもともと批判や反論に対する論駁を意図したものだったことが分かる。

デカルトは、1637年に公刊された『方法序説』において、自説が論駁に値すると思う者はそれを知らせてほしいと反論を公募しており、『省察』第1版の公刊前に、メルセンヌが手配をして、カテルス、アルノーホッブズガッサンディ、ブルダンなど当時の著名な学者に原稿を渡して反論をもらっておき、それに対しての再反論をあらかじめ付し、メルセンヌ自身も反論を書いた。このような経緯で、本書は、本文の他、反論とそれに対する答弁からなる。第1版の構成は、本文が「ソルボンヌ大学宛書簡」、「序論」、「概要」、「第1省察」、「第2省察」、「第3省察」、「第4省察」、「第5省察」、「第6省察」から成り、それに、「第1反論」と「第1答弁」、「第2反論」と「第2答弁」、「第3反論」と「第3答弁」、「第4反論」と「第4答弁」、「第5反論」と「第5答弁」、「第6反論」と「第6答弁」と続く。第2版では、第1版の誤植を訂正し、「第7答弁」を加筆した。

省察 - Wikipedia

 すべての批判に対して、それを理論的に論駁していくこと。理性的な思考を限界まで推し進めて、絶対的な正しさを証明しようとすること。このような思考態度が、盲目的な信仰や権威主義的な神学による理解を退けて、近代的な理性的思考へとつながっていった。

 『省察』の前半で展開されるその徹底的な方法論的懐疑と数学的な演繹的還元主義、その立場を端的に表す言葉が、「我思う故に我在り」だ。
 だが、このようなデカルトの近代的な側面に光が当てられる一方で、この書物の本来の意図であった神の存在証明という部分は、現代では、ほとんど省みられなくなっていった。

*神の存在証明とは何だったのか
 神の存在を証明しようとするデカルトの試みは、神という絶対者の存在なしで思想を構築する現代にあっては、もはや過去の遺物のように見える。しかし、そこで展開されている理論は、今見ても非常に論理的なものだ。

 デカルトによる神の存在証明は、中世の存在論と近代の認識論が、接合される形で展開する。その意味では、デカルトの思想には、中世と近代の接点、あるいは転換点を読み取ることができる。

 中世哲学を代表する普遍論争は、「存在者」として存在するものは何かを争うものであった。
 われわれが普段、経験によってその存在を確かめることのできる存在は、すべてそれ独自の個別の存在であり、近代哲学の用語で言えば、「実存的」存在であって、決して類や概念として把握されるものではない。
 だが一方で、われわれが存在を理解する際は、すべての存在は類として把握されている。

 たとえば、川の存在を考えてみよう。川には、常に水が流れ込んできていて、その水は決して同じものではない。絶え間なく新しい水が流れ込んでいるという意味で、川の存在は常に変化している。しかし、川という言葉によって、われわれは川の存在を同一性のある一つの存在として理解する。ここで川は水の流れの集合として理解されている。

 だとすれば、川という存在は、いったい何者なのか?こうした問いは、「万物は流転する」と言ったヘラクレイトスの頃より哲学の主題となってきた。
 常に変化する存在の背後には、イデアが存在していて、そのイデアの存在のおかげで、われわれは、常に変化する存在を同一性のあるものとして把握することができる。そう説いたのはプラトンだ。以降、古代から中世を通じて、イデアは感覚的、経験的に知りうる物体的存在と同じように、存在者としての存在的資格を与えられることになった。

 「存在」「存在者」「存在的資格」。。。と、まぁ、ソンザイ、ソンザイと話がややこしくなってくるが、要は、イデアというのは、現代的に言えば、類や概念のことであり、イデアの存在によって現実を知りうるというのは、言葉による認知能力のことだと考えればよい。

 『省察』においてもデカルトは、蜜蠟の事例を執拗に出してくる。蜜蠟は、色、形、硬さのすべてが容易に変化する。感覚によって捉えられる蜜蠟は、決して同一のものではない。川の水と同じように常に変化する存在だ。それにもかかわらず、蜜蠟という同一性を与えているものとは何なのだろうか。蜜蝋という明晰な認識は、何を根拠として成立するのだろうか。結局、ここで問われていることも、変化する実体の背後にある同一性とは一体何かということである。

 デカルトはその懐疑論的な方法によって、経験的に知りうる知識は、誤認の可能性が常に排除しきれないため、理性的な認識の信頼には足らないとして除外している。そして、数学的な概念によって知りうるものこそが、正しい実在だと結論付けている。
 ここには、イデアの世界こそが実在であると考えたプラトンと同じような理性偏重の思考態度が窺える。デカルトは、このように理性を実在証明の最も信頼に足る道具とした上で、神の存在証明を試みる。

 われわれが認識の誤りを知るためには、完全という概念の存在が必要になる。そしてわれわれが「完全性」という概念を想像できる以上、それに対応する「完全」という存在者がいなくてはならない。その完全という存在者は神でしかありえない。よって神は存在する。―――証明終わり。

 なるほどというか、何かだまされたような。。。現代人からすると、何か言葉のトリックにひっかかっているかのような気分だ。

デカルト的存在論から近代の形而上学
 認識できるということと存在しているということの間には、絶対的な隔たりがある。デカルトの神の存在証明は、認識と存在との間の不明瞭さから来ている。現代の哲学では、そこに、存在論と認識論の安易な接合の誤りを指摘するだろう。

 デカルトの後、近代哲学は存在論から認識論へと移っていく。存在と認識は峻別され、人間の持つ認識能力の証明へと主題が変化する。
 「存在者の存在」が問われなくなった現代では、デカルトの神の存在証明は、試みそのものが無意味なもののように思えてしまう。しかし、そこにある「存在への問い」「認識能力への問い」は、哲学において普遍的なものだ。現代においても哲学が論じていることは、言葉が異なるだけで、結局は同じことだ。

 デカルトにしろプラトンにしろ、理性的な思考を極限まで推し進めると、実在を超えた形而上的世界観を展開することになる。デカルトが神は存在するといったように、形而上的世界観を実在のように扱ってしまう思考的態度は、実は人間が陥りやすい誤りの一つだ。
 このような理性偏重は、近代哲学にとっての躓きの石となる。しかし、これが問題となるのは、デカルトの時代よりももっと後、20世紀になってからの話だが。

 古典というものは侮れない。一見、時代錯誤に見えるような問いの中にも、普遍的な問題が隠れている。逆に言えば、人間の考えることなんて、大して変化しないということなのかもしれない。

 デカルトがなぜ神の存在証明を試みたのか、その証明は一体なんだったのか、それを現代において考えてみることも、決して無駄なことではないだろう。

省察 情念論 (中公クラシックス)